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教祖黒住宗忠は、安永9年(1780)11月26日(旧暦)の冬至の日の朝、代々今村宮(岡山市)の神職をつとめる家に生まれました。幼少時より孝心あつく、20歳のころ「生きながら神になる」という志を立てましたが、それも「真の親孝行とは」と自問する年月の中に見いだした結論でした。「心に悪いと思うことを決して行わず、善きことのみを実行する」との厳しい目標を自らに課して“神になる”道を歩んだ宗忠でしたが、数えて33歳の時、かけがえのない両親が流行病でわずか1週間の内に相次いで亡くなり、その悲しみがもとで当時不治の病といわれた肺結核に侵され、2年後には明日をも知れない状態に陥りました。
死を覚悟した宗忠は、文化11年(1814)1月の厳寒の朝、幼いころから両親とともに毎朝手を合わせてきた日の出を拝みました。この“最期の日拝”の祈りの中に、宗忠は知らず知らずのうちに大変な親不孝をしていたことに気づき、せめて心だけでも両親が安心する人間に立ち戻らねばならないと大きく心を入れかえました。この世との別れの日拝は、新たな“生”への祈りに転回したのです。この心の大転換により、宗忠の暗く閉ざされた心の中に陽気な感謝の気持ちがよみがえり、その結果わずか2カ月で不治の病を完全に克服しました。
その年の11月11日、この日は昔から「一陽来復」と称され、物事が新たに始まる時とされてきた冬至の日でした。安永9年の冬至の朝に誕生した宗忠が、死の淵を乗り越えて34回目の誕生日をこの日迎えたのです。昇る朝日に格別の思いで祈りを捧げている時、宗忠は天照大御神と一体になるという“神秘的宗教体験”を得て、いわゆる“悟り”の境地に立ちました。黒住教では、このことを「天命直授」と称して、立教の時としています。
以来、宗忠は世の中の苦しむ人や助けを求める人のために昼夜を分かたず祈り、教え導き、多くの人々から“生き神”と称えられ、自然な姿で教祖と仰がれて現在に至っています。宗忠がその形を離れて天に昇ったのは、嘉永3年(1850)2月25日(旧暦)のことでした。
宗忠在世中に、現在の教団の基礎が築かれ、すでに数万の信者(道づれ)を擁していましたが、宗忠の昇天後、その生誕地であり住まいのあった岡山市上中野(宗忠の教えが「神道の教えの大元」と称えられたことにより、この地は“大元”と呼ばれてきました)を中心に、全国規模で布教がなされました。
神の位を非常に重んじていた江戸時代に「宗忠大明神」という最高位が授けられ、時の孝明天皇(明治天皇の父君)の信心も得、宗忠をまつった京都・神楽岡の宗忠神社(文久2年〔1862〕鎮座)は建立後わずか3年にして孝明天皇の勅命による唯一の勅願所(時の天皇が国家・国民の平安を祈るために指定した神社・仏閣)に定められました。
昭和49年(1974)10月27日、都市化の進んだ大元の地を離れて、黒住教本部は神道山(岡山市尾上)に、壮大な日の出を求めて遷座しました。大元には明治18年(1885)建立の宗忠神社が今もまつられています。
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